15話 雨と太陽の関係、そして月は昇る
- ElleNanaizumi
- 7月26日
- 読了時間: 17分
更新日:8月27日
レーゲンが「少しでも明るい場所に行こう」と提案したのは、ルナが正体不明の女とともに姿を消してから、数分後のことだった。
目覚める気配のないモントとエマの体を一階のリビングに運び、ソファの上に横たえる。ベル、アリシア、レーゲン、ニコルの四人は、すぐ隣にあるダイニングの席に着いた。
家の外壁や窓に打ちつける雨音は激しかったが、沈黙の重苦しさまでは流し去ることができなかった。
ふとベルが時計を見ると、針は三時を指そうとしているところだった。同じように時間を確認したレーゲンはおもむろに立ち上がった。周囲の視線が一斉に集まるのを気にせずに、彼はキッチンへ向かう。
間もなく、レーゲンは人数分のお茶を用意して戻ってきた。
「何をするにしても、まずは一息入れるべきだと思ってね」
レーゲンにすすめられるままに、ベルは湯気が立つお茶を口に含んだ。優しい味のおかげで、目に見えない張り詰めた気持ちが少し緩んだ気がした。
隣にいるアリシアを盗み見ると、彼女の顔のこわばりが取れているように見えた。安心感を得たベルは、テーブルの向こうにいるニコルに目を向けた。
彼女だけは、カップを持ったままじっとうつむいていた。
「ニコル」
席に着いたレーゲンは静かに、だがはっきりと彼女の名前を呼んだ。
彼女はまだ動かない。
「飲んで。君の好きなお茶だよ」
「……気分じゃない」
「その気分を変えるためのお茶だよ」
レーゲンの言い方は優しかったが、有無を言わさぬちからが込められていた。
それを感じ取ったニコルは、観念してカップに口をつけた。彼女は静かにカップをテーブルに置くと、大きく息を吐きながら両手で顔を覆った。そして、ニコルはベルたちの前で、子どものように声を上げて泣いた。
レーゲンはニコルを抱き寄せて、気が済むまでそのままにした。ベルとアリシアは、見てはいけないものを見ているような気がして、彼らからそっと視線を外した。
気を紛らわせようと、ベルは大きな窓のある方向に目を向けた。手前にはモントとエマが寝かされているソファがある。その向こうにある窓には薄いカーテンがかかっていたが、それ越しでも分かるほど、激しい雨をもたらす黒い雲が広がっているのが見えた。まだ、雨は止みそうにない。
と、ベルの耳に、小さなうめき声が聞こえた気がした。
いつの間にか、ニコルは泣き止んでいた。時折、ひくっひくっと余韻が残る呼吸をしているものの、ニコルはだいぶ落ち着きを取り戻したようだった。そのおかげで、小さな声を聞くことができたのだ。
最初にベルが、そしてほかの人々がソファに近づいた。
彼ら四人に見守られながら、エマはゆっくりと目を開いた。意識がまだ明瞭でないのか、表情は乏しい。ニコルは慎重に声をかけた。
「エマ、気分はどう? 痛いところはある?」
エマは静かに首を横に振った。
「ニコル」
「なに?」
「私、さっきまで外にいたはずなんだけど……どうして、もう家の中にいるの?」
話を聞いていた、エマ以外の四人は顔を見合わせた。
ニコルがさらに尋ねた。
「エマは、どこまで覚えてるの?」
「……どこまでって、どういうこと?」
ベルははっとして、困惑を顔に浮かべたエマに話しかけた。
「エマさん、腕輪をつけていたことは覚えていますか?」
「腕輪? ああ、知り合いにもらったの。そのあとすぐに眠くなって……そのあとのことはよく分からない。そういえば腕輪がなくなってるけど、どこかに落としたかな……」
彼女の答えを聞いて、ベルとアリシアは頷きあった。
アリスの時と同じだった――彼女もまた、腕輪をつけられてからの記憶を失っている。
ベルとニコルが同時に口を開こうとするのを、レーゲンが止めた。その手には、いつの間に用意したのか、湯気の立つカップがあった。
「聞きたいことはあるだろうけど、エマは目覚めたばかりだからね」
レーゲンからカップを受け取ったエマは、素直にお茶を飲んだ。
「ありがとう、ちょうど喉が渇いているところだったから」
「それは良かった」
エマがお茶を飲み切ったのを確認してから、ニコルが切り出した。
「……エマ。少し話をするけど、いいかな」
四人――といっても、話をしたのは主にレーゲンとニコルだったが――は、エマが記憶を失っていた間の出来事を彼女に伝えた。
真剣な表情で話を聞いていたエマだったが、自身が友人たちに危害を加えていたことを知ると、さすがに動揺した。
話の最後に、ニコルは言った。
「今回のことで、あんたを責める気は全くない。悪いのはあの腕輪だってことは分かってる。……さっき、腕輪を貰ったのは知り合いからだって言ってたよね」
「ええ」
「その知り合いって、誰」
「それが……カリンだったのよ」
「カリン? あの子、こっちに戻っていたの?」
食いつくニコルに対し、他の人々は頭の上に疑問符を浮かべていた。
レーゲンが尋ねた。
「ニコル、その“カリン”というのは?」
「私とエマが学生だった時のクラスメート。人の心に関わる魔法に興味を持っていた。だけど、在学中に政治的に過激な思想にはまっっていって……いつの間にか学校も辞めて、西部から出て行ったと聞いてたんだよ」
「私もそう聞いていた。だから、あの時……ベルたちがちょっと離れていた時に彼女から声をかけられたことはびっくりしたし、最初は誰か分からなかったんだよね。話しているうちに思い出したんだけど……その時、カリンが腕を出すように言ってきたの。断るのも変かと思ってその通りにしたら腕輪をはめられて。その後は……本当に覚えてないんだ」
エマが話し終えたのとほぼ同時に、ニコルが何かを思い出したように目を見開いた。
「そうだ……! なんで気づかなかったんだろう!」
「どうしたんだい?」
「ルナを連れ去った女、あれがカリンだったんだ!」
「ニコルさん、本当ですか?」
ベルは身を乗り出して尋ねた。
ニコルはしっかりと頷いた。
「あの子、学生の時からすごく肌が白かったんだ。しかも、口紅も血みたいな赤色を選んでつけていたから、すごく印象に残ってる。なのに今まで忘れてたなんて……エマ、あんたが会ったカリン、黒い服を着てなかった?」
「うん、手と顔くらいしか出ていない感じの服。白い肌と真っ赤な唇も学生の時のまんまだった」
「ほかに覚えていることはある?」
「えっと……」
あいまいになった記憶を思い出すのに、エマは顔をしかめるほど苦戦していた。
一同は次の言葉を辛抱づよく待った。
「なんて言ってたっけな……そうだ、挨拶もそこそこに『ニコルから特別な魔法具の話は聞いてない?』って聞かれたんだ。それと、ベルたちのことも気にしてたみたい。『あの子たちとの関係は?』とかいくつか質問されたけど、詳しいことは分からないって答えたよ。実際、ベルたちがニコルに会いに来たこと以外は本当に知らなかったわけだし」
エマが腕輪をはめられたのは、それらの質問の後だったという。
ニコルがエマの手を包むように握って言った。
「ありがとう、エマ。……それと、巻き込んでごめん」
「それを言うなら、私がカリンの行動に対して、もっと警戒していればここまでひどいことにならなかった。こちらこそ、ごめん」
エマとニコルは互いに握りあう手にちからを込めた。
それは学生の頃から変わらない、二人の友情を確認しあう儀式のようなものだった。
間もなく二人は手を離した。その様子に、話すタイミングを見計らっていたベルが言った。
「エマさんがつけられた腕輪と同じものを、僕とアリシアは二回見たことがあります」
大人たちの意識が、ベルたち二人に向けられた。
緊張感の中、それでも子どもたちははっきりと言った。
「一回目は、北部都市に向かう列車の中でした。動物のように暴れる男の人がつけていて、襲われかけたんです。その時はよく分からないまま腕輪が壊れたので詳しいことは分かっていません」
「次に見た腕輪は、私の友人がつけていた。エマ氏と同じように、腕輪をつけていた間、彼女の記憶はなかった。代わりに腕輪をつけていた間の彼女は、別の人格……それも、北部都市で犯罪者とされた人物に支配されていた。腕輪が壊れたことで、彼女はもとの人格に戻ることができたんだ」
「エマさんの腕輪はカリンという人につけられたものですよね。だけど、北部都市でアリシアの友達がつけていたものは、東部都市の議員をしているボーウェンという人につけられたものでした」
考え込んでいたレーゲンが言った。
「つまり、君たちの考えは“ボーウェンとカリンには何かしらのつながりがある”ということでいいのかな」
子どもたちは頷いた。
レーゲンは低く唸ってから言った。
「事情を話してほしいと言った身で言うのもなんだけど、知らなきゃよかったって少し後悔しているよ。複数の都市で同じようなことが起きているんだから、当然彼ら以外にも協力者がいるはずだから……」
レーゲンの言葉を聞いたベルは、誕生日のことを思い出していた。クロが襲撃を受け、アルケーを奪われた日だ。
クロを襲った犯人の正体は、ベルたちが西部に向かった時点で明らかになっていなかった。犯人がここで名前が挙がった人物のいずれかなのか、それとも、レーゲンが言った通りほかの協力者によるものなのか。
ベルの持っている情報では、答えを出すことはできなかった。
黙り込んだベルの様子を気に掛けてレーゲンが声をかけたが、ベルは大丈夫とだけ答えた。
大切な家族を連れ去られたばかりの人々に、これ以上不安を抱かせる情報を出すわけにはいかない――そう考えたのだ。
会話が途切れ、一同はそれぞれ動き出した。レーゲンは食器を片付け、ニコルはモントの様子を見ながら、エマと話をしている。
ベルは彼らに断りを入れてから、アリシアを連れて部屋の外に出た。
薄暗い廊下を照らすように、半透明でぼんやり光る先客がいた。ルークとマルガレータ、そして、言葉でモントの背中を押した金髪の青年だ。彼はゆったりとしたシャツに、細身のズボンを合わせた格好をしていた。ルークたちに比べると、幾分か砕けた雰囲気もある。
「先に、彼を紹介させてほしいんだ」
ルークが金髪の青年に視線を投げる。渋々といった様子で、彼は口を開いた。
「リヒトだ。マルガレータと同じ時代に、装置の管理者をしていた」
一通り挨拶が済んだところで、ルークが言った。
「さっそくだけど、本題に入ろう。ベル、アリシア。次の目的地は決まっているんだっけ?」
「クロさんには、『西部の装置を回収したら、中央に戻るように』と言われています」
「それなんだけど……僕は、南部に行くべきじゃないかと思っているんだ」
「南部、ですか?」
思ってもみなかった提案を聞いて、子どもたちは困惑した。
「なぜ南部に行くべきだと考えたんですか?」
「さっきの襲撃で、装置を狙う敵がいることがはっきりしたよね。ということは、できるだけ早くほかの装置を手に入れる必要が出てきた。……まあ、装置の回収が早いに越したことはないのは元々だけど」
「でも、それはクロさんの判断を聞いてからでもいいんじゃないんですか?」
「僕も最初はそう思っていた。だけど、リヒトが教えてくれたんだ。西部には、直接南部へ行ける列車が通っている。……そうだよね、リヒト?」
話を振られたリヒトが頷いた。
「当初は四年前に開通を予定していたものらしい。だが、疫病の影響で計画が大幅に遅れ、実際に開通したのはつい先日だ」
「どうやって知ったんですか?」
「ニコルに教えてもらった。ボクは彼女の前に姿を現して、時折情報交換をしていたんだ。マルガレータたちと違って、ボクは親しみやすいことをモットーにしているからな」
ニコルとリヒトがどんな会話をするのかは気になったが、ベルはぐっとこらえた。
代わりに、アリシアが難しい顔をしながら言った。
「……私は、ルナの行方が気がかりだ。無事だろうか」
「少なくとも、すぐに命を奪われることはないはずだ」
そう言ったのはマルガレータだった。
「ルナを連れ去った女は、やろうと思えばルナを含むあの場にいた全員を殺すことだってできたはずだ。それをしなかったという事は、少なくとも生かしておく価値はあると判断したのだろう。例えば、そなたたちを人質にしてルナに服従を求める……といった具合に」
アリシアは納得して、静かにうなずいた。
それに――と、ルークがマルガレータの言葉に続けようとしたが、結局それが口から発せられることはなかった。
不思議に思ったベルが尋ねた。
「ルークさん、何を言おうとしたんですか?」
「仮定の話だよ。……さすがに考えすぎだと思って。君たちに余計な不安を与えてもいけないから」
さらに踏み込んで尋ねるべきか、ベルは迷った。
その答えが出る前にリビングから大きな声がして、ベルたちは一斉に扉がある方を見た。
いつになく慌てた様子の、ニコルの声だった。
「行っておいで。また後で話そう」
聞きたかったことはたくさんあったが、ベルたちは友人の安否確認を優先することにした。
暗がりに溶け込むようにルークたちが消えるの背にして、二人は扉を開けた。
ダイニングには誰もおらず、モントが寝かされているソファの近くに、ニコルとエマの姿がある。
二人の後ろから子どもたちが様子を伺うと、そこには、しかめっ面のモントが横たわっていた。
「目を覚ましたんだね」
「ベル、アリシア……」
モントは細く息を吐いた。
「体が、運動した後みたいにだるくて痛いんだ」
「それって、ニコルさんたちを助けた魔法の反動じゃない?」
「そうかな……」
と、レーゲンが水を持って現れた。モントが目を覚ましたあと、キッチンで用意をしていたのだ。
「飲めそうかい?」
モントは頷いた。ニコルに助けを借りながら体を起こし、何とか中身を飲み干した。
「なんか酸っぱいんだけど……」
「ちょっとだけレモン汁を入れたよ。疲れたときは酸っぱいものがいいんだ」
「……うぇ」
先ほどとは別の意味で、モントは顔をしかめた。モントは酸味と苦味のあるものが苦手なのだ。
「やっと、いつも通りのモントになったね」
微笑しながら話すレーゲンの言葉に、モントは俯いて言った。
「ルナは、まだ見つかってないんだよね」
「そうだね。でも、きっとまた会える。これから、できる限りのことをして見つけてみせる。だから、安心して待っていて」
レーゲンは穏やかさを装って息子に語り掛けた。
ところが、返ってきたのは予想外の反抗だった。
「……やだ」
モントは顔を上げ、レーゲンをじっと見つめた。いつになく真面目な顔つきだった。
「ボクにも何か手伝わせてよ。 待ってるだけなのはいやだ」
「それは――」
レーゲンは言葉に詰まってしまった。代わりに答えたのは、別の人物の声だった。
「――だったら、ベルたちについて行け」
モントが身に着けていた髪飾りが光って、すぐそばに実寸大のリヒトが姿を現した。
レーゲンとエマは見知らぬ人物の登場に驚き、平然とするニコルに説明を求める視線を投げかけた。
当のニコルは、まるで近所に住む人に挨拶をするような軽さで、リヒトに話しかけた。
「ごめんなさい、みんなにあんたのことを紹介するの忘れてたわ」
「……ベルとアリシアにはさっき話した。旦那と友人には、あんたから話しといて」
「分かった」
リヒトは、ソファの上でぽかんとするモントをじっと見た。モントは我に返って言った。
「あんた誰?」
「リヒトだ。覚えておけ」
「偉そうに命令するなよ。なんで会ったばかりの奴に覚えておけとか言われなきゃいけないんだよ」
「細かいことは後だ。とにかく、今後はベルとアリシア、二人と一緒に行動しろ」
「はあ?」
あまりにも一方的な物言いをするリヒトに、モントは苛立ちを抑えずに言った。
「なんでベルたちと一緒に行かなきゃいけないんだよ! ボクは妹を助けなきゃいけないんだ。確かに二人は友達だけど――」
「彼らといることで、ルナに関する手がかりがつかめる可能性があるとしても、か?」
先ほどの状況と同じだった。リヒトは、モントに効く言葉を知っている。
モントは抱えていた怒りが少しずつ消えていくような気がした。しかし、発した言葉にはほんの少しの不安が残っていた。
「……本当に、ベルたちと一緒にいたら、ルナに会えるのか?」
「保証はできないが、少なくともここにいるよりは可能性がある。それに、お前は装置の新しい管理者になったんだ」
「装置?」
「その髪飾りだ。言っただろう? 『ずっと見てきた』って」
モントは髪飾りを外して、手に乗せたそれをじっと見た。
数時間前までは半月の形だったし、中央にはめられた黄色の石はまだ見慣れない。
だが、モントやルナの髪色に似た黄金色や、“月の表面のような”でこぼこは、ずっと慣れ親しんできたものだ。
「まだ信じられないか?」
リヒトの言葉に、モントはゆっくりと顔を上げて彼を見上げた。
その視線は、まだ信じられないと訴えかけている。
と、リヒトが悪戯を思いついたような悪い笑顔を見せて言った。
「移動遊園地が来た時、屋台飯を制覇しようとして食いすぎた末に具合悪くしただろう」
「ちょ、なんでそれを!?」
それは、モントが保護者に必死に隠してきた秘密だった。リヒトの予想外の攻め方に、モントは慌てだした。
既に知っているベルとアリシアは笑いをかみ殺しながら様子をうかがっっている。
笑うべきか怒るべきか――どう反応すべきか迷う大人たちを見たリヒトは味を占めて、さらに悪い顔をして言葉を続ける。
「それから中央都市にある全てのパン屋を制覇しようとして同じく失敗」
「あわわわわ」
「極めつけは学食を――」
「もういいって! 信じるからからもう言うなぁ!」
唐突な暴露と顔を真っ赤にしたモントを見て、みんなはこらえきれずに大きな声で笑った。それだけのことだったが、暗かった部屋はまるで雨上がりの空のように明るくなった気がした。
笑い声が収まった後、幾分か真剣な様子でニコルが言った。
「さっきの話に戻るけど、モントが新しい管理者になったんだよね」
「ああ。あんたと旦那を治すためにモントが使った魔法、あれを見て確信した」
「リヒト、あんたのことは信用してる。だけど……正直、モントを――子どもたちを、これ以上争いに巻き込みたくはない」
「だが、既にルナは敵の手の中にある。しかも、モントやあんたたち、特に装置を持っているベルとアリシアのことも知られた。そういう意味では、既に巻き込まれているんだ」
「分かってる。それでも……やっぱり親だからさ」
「親だったら、ボクよりも分かっているだろ。子どもたちには十分な才能があるって」
リヒトの言葉に、ニコルは硬い表情で頷いた。ベルは、彼女がレーゲンの手を握っていることに気づいた。
空いたもう一方の手でニコルの肩を抱きながら、レーゲンが言った。
「子どもたちのために僕たちができることはあるかい?」
リヒトは静かに首を振った。
「この先のことは、管理者でなければ対処できない。……子どもたちが帰ってくる場所をあんたたちが守ってくれるのが、一番の協力だとボクは思う」
「……そっか」
それからいくつかの言葉を交わした後、リヒトは空気に溶けるように姿を消した。
途端に、にぎやかだった部屋の中がしんと静まり返る。ベルは雨の音が止んでいることに気づいた。
リビングの大きな窓に近づき、白いカーテンを動かす。
窓の外で、灰色の雲を背に大きな虹がかかっていた。
☆
午後十時を過ぎた頃、モントの部屋にはベルの姿があった。
二人は既に、部屋着に着替えてそれぞれの寝床に入っている。明かりも消しているので、眠るための準備は全て済ませていた。
ルークの提案通り、子どもたちは南部都市に向かうことにした。
計画を話した時、モントの両親はすぐには承諾しなかった。だが、ベルたちが必死に説得し、なんとか許しを得たのだ。
そして、エマの家よりも駅に近いという理由で、両親はベルたち二人に泊まることを提案して現在に至る。
「なにげに初めてじゃないか、ベルと一緒に寝るの」
「言われてみればそうだね」
「アリシアも一緒に寝ればいいのに」
「三人で寝るには、この部屋はちょっと狭いんじゃないかな……」
「それもそうかー」
――いくら友達だからって、女の子と一緒の部屋で寝るのはまずいんじゃないかな。
ベルは喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、カーテンのかかっていない大きな窓に目を向けた。
日中の雨が嘘のように、雲一つない空に丸い月が浮かんでいる。青白い光は、眠りにつこうとする子どもたちを穏やかに照らしていた。
「……ベル、まだ起きてる?」
そう尋ねるモントの声は、ぼんやりとしていた。それが眠りにつこうとしているモントのせいなのか、それを聞いているベル自身のせいなのかは分からなかった。
「起きてるよ」
同じようにぼんやりとした声でベルが答えると、数拍の間をおいてモントが呟いた。
「……ルナ、泣いてないかな」
「きっと、大丈夫だよ」
「……うん」
間もなく、モントが眠るベッドの上から寝息が聞こえてきた。
ベルは瞼を閉じて、眠りに落ちていく感覚を抱きながら静かに祈った。ルナの心が、そしてモントの心が、せめて眠っている時だけでも平安でありますように、と。
その夜はとても静かだった。
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