午前6時。
街中を震わせるような鐘の音を合図に、ベルは目を覚ました。
顔を洗い、制服に着替える。今日は朝食担当だから、上からさらにエプロンをつける。
寝室からキッチンに移動し、食糧庫を確認。今日のメインは目玉焼きとベーコンにしよう。
香ばしい匂いがリビングに漂い始めた頃、兄のウィルが姿を現した。
眠そうではあるが、仕事着であるスーツは既にしっかり身に着けている。
ウィルの仕事は新聞記者。街では有名な新聞社に所属していて、主に文化系記事を担当している。
「おはよう、ベル」
「兄さん、おはよう。ご飯できてるよ」
2人で食卓に着き、朝食をとり始めた。
貴重な家族の時間であり、また、情報交換の場でもある。
「そういえば、この前話してた市役所の件ってどうなったの?」
時折、ウィルは分野を問わず気になった記事やネタをベルに話すことがある。
ベルがウィルに尋ねたのは、そうした話題のうちの1つだった。
〈市役所にて盗難事件 何を盗まれたのかは不明〉もし記事になっていたら、そんな見出しがついていただろう。しかし、あまりにも不確定な情報が多かったため、実際の紙面に載ることは無かった。
「盗難事件なのに、何を盗まれたのか分からないって不思議だよね」
「警察の調べで、市役所の歴史課が管轄しているかなり古い資料ってとこまでは分かった。けど、古すぎていつからある資料だったのかも、詳しい内容も盗まれた時期も分からないそうだ」
「じゃあ、どうして盗まれたってわかったの?」
「歴史課の資料庫は月に1回巡回がある。その時――木箱1つ分だったかな、棚がぽっかり空いていたんだ。いくら内容が分からないといっても、不自然な空間があれば流石に気づくだろ?」
「資料庫かあ、学校の校外学習で行ったことがあるけど、すごく広いよね。それなのに巡回は月に1回なんだ」
「歴史課で働いている知り合いが言うには、人手が足りないのに予算が下りないから新しく人を雇うことができないんだと。2年くらい前から続いている行政改革の一環らしい」
「そうなんだ」
ウィルの言葉を聞きながら、ベルは冷め始めたベーコンを口に運んだ。
☆
正午を少し過ぎた頃、ベルは学校の中庭を訪れていた。
ここは、ベルにとってお気に入りの場所の1つ。
この場所は教室から離れた位置にあるので人がほとんどいない。日当たりも良いので、晴れた日はここで昼食を摂ることにしていた。
そして何より、この場所では友人たちと気兼ねなく集まれる。
ベルが中庭に着いた時、先客は1人だけだった。
クラスメートでもあるアリシアは既に食事を済ませていて、今は持ってきた本を読んでいる。腰まであるまっすぐな銀色の髪が、太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。ベルが定位置の石に腰掛けると、アリシアが顔をあげた。
「お疲れ様」
「ああ」
「今度の本はどんな内容?」
「大陸史の授業で気になることがあって、それに関係しそうな本を読んでる」
「もしかして大陸戦争について?」
「そう。教科書ではそんなにページが割かれていなかったから」
「そっか」
大陸戦争とは、文字通り大陸全土を巻き込んで繰り広げられた領土争いである。今から数百年前の出来事ではあるが、他の時代に比べ資料が著しく少ないため、特に戦争末期については詳細がほとんどわかっていない。
学校で教えられるのは、争いの原因と勝敗くらいである。
「そういえば、ハキーカたちはまだ来ていないんだね」
ベルがそう言った瞬間、通路の方向から複数の声が聞こえてきた。
間もなく姿を現したのは、予想通りの3人だった。
それぞれの定位置に落ち着いた彼らに、ベルが尋ねる。
「遅かったね、授業が長引いたとか?」
「そんなとこ」
3人のうち、長身の少年が答える。
ハキーカは1つ上の学年に所属している、快活な少年だ。
浅黒い肌に栗色の髪というのは大陸南部出身者に多い特徴だが、過去に関しては本人があまり話さないため詳しいことは分からない。
現在はウィルも所属している新聞社の社長の養子として育てられている。
「おかげで、2人と合流できたけどな」
言いながら、ハキーカは一緒にやってきた2人に目を向ける。
モントとルナ。着ている服は違うものの、背格好や黄金色の髪、明るい緑の瞳から、彼らが双子であることを見抜くのはたやすい。
モントは早速大きなバゲットにかぶりついていた。
一方のルナは困ったような笑顔を兄に向けつつ、自分の昼食を準備している。
「そういえばさ」
ハキーカは購買のサンドイッチを片手にベルに言った。
「2日後の放課後って、何か予定あるか?」
「聖堂に行こうと思ってたけど、それ以外は特にないよ。何かあるの?」
「その日、お前の誕生日だったよな。ちょっとした祝いをしたいと思ってさ」
その場にいた全員の視線がハキーカに集まった。
彼は続けた。
「詳しい話はこれからウィルさんと詰めていく所なんだが、ここにいるメンツで集まって飯でも食べに行きたいなって。どうだ?」
ベルはすぐに答えた。
「うれしいな、もちろんいいよ」
「他のみんなは?」
「もちろん行くぞ!」
即答したのはモントだった。
「私も行こうかな」
続いて、アリシアも答える。
「ルナはどうする?」
「わ、私も……行きたい」
「決まりだな」
ハキーカはにっと笑った。そんな彼に、ベルが声を掛ける。
「そうだ、ハキーカ」
「なんだ?」
「もう1人誘いたい人がいるんだけどいいかな?」
「もちろん。主役はお前なんだ、遠慮することはないぜ」
「ありがとう。今日会いに行く予定だから、その時に聞いてみる」
「いい返事がもらえるといいな」
「うん」
こうして、昼休みの時間はあっという間に過ぎていった。
☆
オレンジの光が差し始める頃、ベルは緩やかな坂道を上へと歩いていた。
中央都市は小高い丘の上に築かれた街である。ふもとから中腹にかけては住宅街や商業施設が多く、上層の区画は行政や教育機関などの公共施設が多い。
そして、今ベルが目指しているのは街の最も高く、中心に位置している場所。
街のシンボルでもある、時計塔と聖堂だ。
これらの建物は、中央都市が都市として成立する前から存在していた。歴史的な価値もさることながら、時計塔は街のどこにいても見ることができる灯台のような存在として、また、聖堂は大陸で広く信仰されている宗教の総本山として、人々の生活に深く浸透している。
ベルが聖堂前の広場に着いた時、聖堂の正面口には1人の青年がいた。
「クロさーん!!」
ベルが叫ぶと、青年は手を挙げて応えた。
広場を横切って、ベルは青年の元へ駆け寄った。
「そろそろ来るんじゃないかと思ってた」
クロと呼ばれた青年は、ベルの頭をわしゃわしゃとなでながら言った。
彼は聖堂と時計塔の管理人であり、ベルにとってもう一人の兄とも言える人物でもある。
クロに頭をなでてもらうことに悪い気はしないが、ただでさえ酷い癖毛がより乱されてしまうので、ベルとしては複雑な心境だ。
「そうだ、今日はいいものを見せてやろう」
なでていた手を止め、クロが言った。
「いいもの?」
クロは、ベルを建物の中に引き入れてから入口に閉館の札を立てた。
「勝手に閉めていいんですか?」
「この時間だ、もう誰も来ないさ」
クロに誘われるままに、ベルは聖堂の奥へと進んでいく。
礼拝スペースである【祈りの間】を抜け、立ち入り禁止と書かれた扉を抜ける。
扉の向こうは時計塔の内部へと繋がっていた。
薄暗い空間に目が慣れると、レンガ造りの壁に沿ってらせん状に階段が上へと続いているのが分かった。クロが上り始めたのを見て、ベルもあわててついていく。
10分ほどかけて上った階段の先は、時計の文字盤の裏側に続いていた。
文字盤は半透明のガラスで出来ていて、針が間もなく午後5時を指そうとしているのが見えた。
「ベル、耳をふさいでおけよ」
疑問を抱きつつも、ベルは言うとおりにした。
その直後、塔全体を震わせるような鐘の音が鳴りだした。
ゆっくりと5回鳴った後も、反響はしばらく残っていた。
クロに肩を叩かれて、ベルはようやく我に返った。
「俺も初めて聞いた時はしばらく動けなかった」
「すごい音ですね」
「なにせ街のどこにいても聞こえるほどの鐘の音だからな。実際はすべてがここから出た音ってわけじゃなくて、街の各地に設置された反響補助装置がそうさせているらしい、まあ技術的なことについては俺も良くは知らないが」
「いいものって、これですか?」
「いや、ここのさらに上だ」
部屋の奥にあった木製の梯子を伝い、先にクロが上った。
天井の扉を押し上げると、その先に巨大な鐘の一部が見えた。
クロに続いて、ベルも梯子を上る。
扉から顔を出した瞬間、強い風に煽られそうになった。
クロに助けてもらいながら、梯子を上りきって足場にしっかりと立つ。
「わあ……!」
時計塔の文字盤のさらに上、恐らく中央都市で最も高い場所からの景色は、ベルがこれまでに見てきた景色の中で一番といえるほどの絶景だった。
先ほどよりも赤みを増した太陽の光が、建物の屋根を染め上げている。
建物の陰になった区画では街灯や家の明かりがつき始めていて、まるで地上に星が生まれていくように見えた。
「もうすぐ誕生日だからな、特別だ」
「クロさん……ありがとうございます」
何とか感謝の言葉を言い切ることはできたが、熱いものがこみあげてきてその先に言葉を紡ぎだすことはできそうになかった。
せめて、景色だけでも焼き付けておこう。ベルは夕日が沈みきるまでその場を動こうとしなかった。
辺りがすっかり暗くなった頃、ベルたちは聖堂裏の出入口から外に出た。
帰り際、ベルは誕生日の食事にクロを誘ったが、「どうしても抜けられない用事がある」と断られてしまった。
「それにしても、お前がそういう友人を持つようになるなんてな。成長を感じる」
「それは褒めてるんですか……?」
「褒めてるよ」
不満そうなベルの表情を見て、からからとクロが笑う。
一瞬の間をおいて、ベルも笑った。
「別の機会があったら、また誘いますね」
「ああ、楽しみにしているよ」
「今日は、本当にありがとうございました!」
ベルは手を振りながら、広場を抜けて坂道を下り始めた。
その姿が完全に見えなくなってから、クロはぽつりと呟いた。
「あれから15年か、短いようで長かったな」
☆
午後11時。
翌日の準備を全て済ませ、ベルはベッドの中にいた。
友人たちの祝福が嬉しくて、胸のあたりが温かかった。
目を閉じて、ゆっくりと呼吸をすると、意識が心地よい闇の中に沈んでいく。
その数瞬の間に、いつもの祈りを思い浮かべた。
明日もいい日だといいな。
間もなく、ベルの当たり前だった日常が終わろうとしていた。
コメント